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学校教育とシグナリング

学校はリンゴを育てる場ではなく、どのリンゴが優れているかの鑑定をする場所である。

高校・大学で学ぶ内容の大部分は、社会に出てから使いません。

実際、大半の人は因数分解・古典文法・モルを使っていません。

高校・大学で学ぶ半分くらいの理由は「卒業できる程度に従順で・学力があり・協調性があることをアピール」するためです。

そんなの、皆さん直感的に理解していることですよね?

あぁ、学校で学ぶことが無意味だと言ってるわけではありません。

半分くらいは「シグナリング」である、と主張していこうと思います。

目次

学校教育は主にシグナリングである

シグナリングとは、「本質的な能力や性質を直接見せるのが難しいとき、代わりにそれを示す手がかりを出すこと」です。

企業が採用において、「この人は優秀か?」を知る手がかりとして学歴を使うので、学歴は優秀さを表すシグナリングになります。

学歴フィルターのようなものです。

「学歴があるから優秀である」ではなく、「学歴があると優秀である可能性が、一般的に・平均的に見ると高まる」です。

学校で学習する微積分・古典文法は仕事に使いませんが、

  • 「従順さ(勤勉性)」

  • 「ある程度の知力」

  • 「協調性」

を持ってることが期待されます。

全ての人からランダムに選ぶよりも、大学卒業している人からランダムに選んだほうが、従順さ・知力・協調性の高い人を引き当てる可能性が高いだろうと考えているわけです。

逆に、高校を卒業していないからランダムに選ぶ場合、従順さ・知力・協調性のどれか(あるいは、全部)が欠けている確率が高くなると考えます。

学校は無意味な場所ではありません。

学校は、従順さ・知力・協調性のある人を選定する場所として価値があるのです。

学校で学ぶことに価値はあるのか?

学校で学習することで多くの人に役立つのは、

  • 読み書き
  • 四則演算
  • 割合、%の計算
  • グラフの読み取り
  • 科学リテラシーの育成
  • 英語全て

くらいです。大体中学校までの内容だけでオッケー。それ以外は使いません。

  • 体育
    →健康の維持に意味はあるが、授業の内容を将来使うわけではない

 

  • 家庭科
    →良い内容を扱ってはいるが、形骸化しており、深掘りもしないので実質意味なし

 

  • 数学や物理で抽象化能力や論理性を鍛えられる
    →・教科の内容は将来使わない
    ・数学で上昇するのは数学の問題を解く論理性であり、一般的な論理性ではない
    ・直接、抽象化や論理性の練習をする方が、効果あり

のように、一見意味のあるように思えるものも、実際に効果があると示されていません。

また、教育基本法では

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法:文部科学省

とされていますが、教育は人格を完成させていません。

社会の現状(SNSの荒れ、誹謗中傷、不真面目さ、会社内いじめ)を見る限り、学校が人格を完成させているとは到底言えないのではないでしょうか。

人格の大部分は、

  • 幼少期の愛着
  • 家庭の語りかけ量
  • 情緒的安定
  • 成功体験の有無

などから決まります。

いわゆる「親ガチャ=環境ガチャ」の影響が非常に大きく、学校で育ててるわけではありません。

人格に優れている人は、学校によって優れた人格になったのではなく、良好な家庭によって優れた人格を得たのです。

なお、この話は「平均的に見ると」という前提があります。

学校のおかげで優れた人格になる人もいますが、あくまで例外であり、例外を一般論にするのはナンセンスです。

人格は学校よりも家庭環境により大きく影響されるというだけです。

結局、教育制度=実用知識の提供ではなく、能力証明の制度装置=シグナリングの面が大きいと言えます。

学習転移はほとんど起こらない

学習転移とは、「ある場面・文脈で学んだ知識やスキルが、別の場面・文脈で活かされること」を指します。

ただ、学習転移の効果は限定的であることが知られています。

例えば、数学で論理性を鍛えたからといって、ビジネスでの論理性や将棋の論理性が上がるわけではありません。

数学で鍛えられるのは、証明問題や方程式を解くための論理性であり、数学を勉強して将棋が上手くなるわけではないのです。

同様に、国語で鍛えられる読解力は、国語の問題を解くスキルであって、汎用的読解に強く影響する証拠は弱いです。

教師はよく、「将来使わない内容だったとしても、理科や数学で論理性が、国語で読解力が鍛えられるんだ」という魔法の言葉を使いますが、理科や数学で鍛えられるのは理科や数学であり、国語で鍛えられるのは国語です。

学習転移は限定的であり、ほぼ無いと見なすのが常識です。

学校で3年間勉強をするより、3カ月実際に働く方が仕事に使うスキルはより身に着きます。

なぜなら、学習転移はほぼ起こらないからです。

では学校は意味のない場所なのか?

学校は意味のある場所です。

正確には、個人にとって、学校を卒業することに大きな意味があります。

なぜなら、「卒業しています」とアピールが可能だからです。

企業は、BではなくAを採ります。

なぜなら、「Bは大学を敢えて卒業しないような選択を取る人である」という負のシグナリングがあるからです。

例えBがどんな理由を言ったとしても、その言葉を信用することにリスクが生じるため、そんなリスクを抱えてまでBを選びません。

ゆえに、卒業証書を手に入れると有利になるという点で、学校には意味があります。

また、読み書き計算、英語、基本的な科学リテラシーなど、意味のあるものがあるため、学校には意味があります。

他にも、

・大学で古典の研究をし、古典の学者になる
・古典の教師になる

場合は、古典の勉強をする意味があります。使いますからね。

もちろん、普通の社会人になる場合、古典は必要ありません。微積分も運動方程式も不必要です。

さらに、治安維持のためにも学校は必要です。

役に立たない15~22歳の人が社会に出ても邪魔なため、学校という場所を与えることで余計な混乱を生まないことができます。

大きなメリットですね。

素晴らしい。学校にはたくさんの意味があるんですね。

シグナリングの結果、学歴インフレが起きている

良い印象を持ってもらうためには、大学卒業の資格は有効です。

しかし、多くの人が大学卒業をした場合、大学卒業の希少性は薄れてしまいます。

コンサートでステージをよく見る方法は、立ちながら鑑賞することですが、全員が立つと効果が薄れますよね。

それと同じで、多くの人が大学を卒業するようになると、卒業証書の価値が薄れます。

知りたいのは上位の人が誰かであって、卒業証書を持っているかどうかではないのです。

その結果、学歴インフレが起こります。

大学生が増えた結果、ただの卒業証書の価値は薄れました。

その代わり、貴重な卒業証書、すなわち「偏差値の高い大学の卒業証書」の価値が高まるのです。

偏差値の高い大学の卒業証書を手に入れるためには、受験戦争に勝つ必要があります。

英検のような「一定基準を超えた人が全員合格」するような試験ではなく、「上から数えて何番目までの人しか合格」しない試験です。当然、競争は激しくなりますよね。

コンサートを見るために、つま先立ちをするようなものです。

主張まとめ

学校教育の半分くらいはシグナリングである。

なぜなら、多くの人から選ぶよりも、大学卒業した人から選ぶ方がリスクが小さく、より良い人を引き当てる可能性が高まるからだ。

学校が無意味と言っているわけではない。

学校はシグナリングをする場所として価値があるし、当然、読み書き計算など大事なスキルも学べる。

古典や微積分は不要。将来使わない。

学習転移もしないから、古典や微積分の知識が全く別の場所で活躍することもない。

数学で鍛えられる論理性は、数学の問題を解くための論理性である。

古典や数学は魂を育てる、感性を育むと言う人もいるが、現実として、古典や数学を退屈に感じる人の方が圧倒的に多く、コスパが非常に悪い。

そもそも、感性を育むために古典や数学を学ぶのは遠回りである。感性を育てたいなら、感性が直接伸びるような作品を鑑賞する方がまだマシ。

もちろん、古典や微積分を将来使う人もいるが、例外だ。

つまり、大半の人に学校で学ぶ教科は不必要。

昨今、学歴インフレが起きている。共通テストの難易度はどんどん上昇している。

理由は、大学生が増えたことで普通の卒業証書の価値が低くなり、偏差値の高い大学を目指す人が多くいるからだ。

偏差値の高い大学の卒業証書に価値があるため、競争が激しくなり、学歴インフレが起きている。

学校で学ぶ教科は将来役に立たないが、偏差値の高い大学の卒業証書は役に立つため、勉強する必要がある。

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