「才能は遺伝か、努力か」。
この二者択一は、問いとしては賢そうだが、日々の経験に触れていない。朝、同じニュースを読んで「たいしたことはない」と受け流す人と、胸のどこかがざわつく人がいる。授業で同じ注意を受けても、ある者は萎縮し、ある者は修正点の地図を手に入れたように動き出す。出来事は同じだが、世界の入り方が違う。その違いを私は「感受性」と呼ぶ。
ここで言う感受性は涙もろさの話ではない。出来事にぶつかった瞬間に、それを可能性として受け取れるかどうかという、反応の質のことだ。努力に関しても同じである。「やれば変わる」という文句を、単なる標語として眺めるのか、それとも手応えの予感として掌に載せられるのか。この差は、遺伝子の型番や努力時間の集計表では測れない。測れないが、行動と結果には確かに現れる。
双生児研究は、能力に遺伝の寄与があることを示してきた。メリトクラシー批判は、努力の機会そのものが偶然と制度に依存することを抉り出した。どちらも正しい。だが、遺伝か環境かは関係ない。いま、その人がどのように受け取っているかが、現前の現実だからだ。
たとえば、同じ指摘を二度受けたとする。「またか」と肩を落とす反応もあれば、「もう一段深く直せる」と判断する反応もある。両者の差は、やる気の有無ではなく、注意という出来事を「攻撃」として受け取るか「設計図」として受け取るかの差だ。受け取り方の違いは、その後に選ぶ行動の目録を書き換える。結果、数ヶ月後には別人のような軌跡が残る。
映画館の暗闇で、ある人は泣き、ある人は泣かない。泣ける人が偉いという話ではない。作品が差し出す意味の束に、身体が反応できるかどうかという、純粋な受容の問題である。努力についても同じことが起きている。「これは自分を変える素材だ」と感じ取れる感受性がある者は、素材が粗くても調理を始める。感じ取れない者は、最高級の素材を前にしても包丁を握らない。
「世界は変えることができる。」
「この世にある全ての技術は練習すればできるようになる」
「努力をすれば必ず成長する」
これらが事実かどうかはどうでもいい。映画を観て泣けるか泣かないかと同じく、人は努力すれば必ず伸びると信じることのできる感受性を持つことが人を成長させる。成長すれば伸びると信じられる心を持つことが才能なのだ。
「才能とは何か」と問われたとき、私が感受性を指すのはこのためだ。才能を「結果」として定義すれば、話は過去の成績表に閉じこもる。才能を「伸びしろ」として定義すれば、話は未来の空想に溶けていく。どちらも、人が世界にどう触れているかという現在形を見落とす。出来事を可能性として受け取る、その現在の働き。それを私は才能と呼びたい。
結論は簡潔でよい。
出来事は選べないが、受け取り方は鍛えられる。
才能とは、その鍛えられた受け取り方=感受性のことだ。
由来を問わず、今この瞬間に働いているその機能を、私は才能と呼ぶ。
