「不快にさせて申し訳ございません」。
世の中で頻繁に聞く謝罪のテンプレートだが、実際には何も謝っていない。
しかし、不快=罪だと信じ込んでいる人にとっては、これが「正しい謝罪」になる。
つまりこの言葉は、責任逃れのポーズであると同時に、ゴミ思想に染まった人間を納得させるための呪文でもある。
人を不快にさせることは罪ではない、罪ではないので「不快にさせたこと」を謝る必要もない。
こんな単純なことくら、分かってほしいものだ。
不快は罪ではない
人を不快にさせること自体は罪ではない。
誰もが違う価値観や立場を持っている以上、どんな言動であれ、誰かを不快にさせる可能性はある。
もし「不快」が罪だとするなら、この世の全員が常に罪人だ。
例えば、私が今「お前の発言は不快だ」と宣言した瞬間に、その相手は罪人になる。
そんな馬鹿げた世界がまともに成立するはずがない。
だからこそ「不快=罪」という発想は、最初から破綻している。
「行為」が罪である
謝罪の対象は「不快」という曖昧な感情ではなく、具体的な行為だ。
差別をしたなら「差別をしたこと」を謝罪する。
侮辱したなら「侮辱たこと」を謝罪する。
暴力をふるったなら「暴力たこと」を謝罪する。
相手が不快に感じたかどうかは関係ない。
包丁で相手の腹を刺しても、相手が不快に感じなければ罪じゃないのか。そんなわけない。
「不快にさせてすみません」は、自分の行為のどの部分が悪いかを隠すための詭弁だ。
「不快にさせた」という感情に対することが罪なのではなく、具体的な行為が罪になるのである。
「不快にさせてすみません」と言っている人は、自分がなぜ謝罪しているのか理解していないか、聞く人間の知性を馬鹿にしているかのどちらかだろう。
不快=罪という腐った構図
にもかかわらず、世の中では「不快になった人がいる」→「加害者がいる」→「謝罪が必要」という安直な図式がまかり通っている。
これは、「不快にさせたことは罪である」と信じている人が一定数いるという証拠だ。
上記の通り、不快は罪ではない。
しかし、「自分が不快になった」のは「加害者のせい」であり、「自分が気持ち良くなるため」に「謝罪をさせることは当然」と考える人がいる。
ゆえに、本来成立しないはずの「不快にさせて申し訳ございません」が成立する。
「自分が不快だから謝れ」と要求する態度は、弱さと支配欲の混ざった最低の姿だろう。
不快を理由に相手を屈服させ、優位に立ちたいだけ。
そんなものは道徳でも正義でもない。ただのプライドの塊であり、ゴミ思想に他ならない。
ネット炎上と「お気持ち表明」の茶番
この「不快=罪」の思想が最も醜く噴出するのがネット炎上だ。
当事者でもない外野が「不快だ!傷ついた!」と勝手に騒ぎ立て、お気持ち表明の大合唱を始める。
正義の味方を気取っているが、実際は「俺は被害者の側に立っている」という優越感に酔っているだけだ。
群れになって石を投げ、気持ちよくなっているだけの存在。
このしょうもなさに本気で涙が出る。社会を良くしているつもりで、実際には腐らせているのだから。
結論
不快は罪ではない。
謝罪すべきは「不快」ではなく「不適切な行為」だ。
「不快=罪」という腐った思想に染まった人間は、論理も誠実さも放棄し、ただ感情を振りかざして他者を支配しようとする救いようのないクズである。
彼らは社会を健全にするどころか、言論と人間関係を腐敗させる元凶だ。
このゴミ思想は早急に駆逐されるべき。
くだらない人生を送るのはやめよう。