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知性箱舟論

世の中は泥沼だ。職場では派閥や立場が成果を覆い、会議は「喋った感」で満たされ、裏では他人の失敗待ちが常態化する。学校では群れの均衡を守るための笑い者づくりが繰り返され、家庭では責任の押し付け合いが信頼を食い潰す。SNSでは短い言葉が石になり、誰かを叩いて一瞬の快感を得る。人は馬鹿にし、馬鹿にされ、泥を掛け合って消耗していく。

なぜこうなるのか。人は他人との比較で自分の位置を測るからだ。努力や成果は遅いが、相手を貶めるのは一瞬で効く。注目は感情に引き寄せられ、怒りや軽蔑の言葉はよく燃える。忙しさと不安が重なると、相手の立場を想像する手間は省かれ、反射的な攻撃だけが残る。しかも壊すのは一瞬、築くのは長期だ。悪口の快感は即時、信頼の蓄積は鈍い。遠くにある目標より近い快楽の方が好む、それが人間の性なのかもしれない。

その沼の底で最も粘つくのが嫉妬だ。妬み、憎しみ、従うふりをして首を狙う。表向きは礼儀正しく頷き、裏では足場を崩す。成果ではなく失敗の共有、称賛ではなく傷の採掘。足の引っ張り合いを経験したことのない日本人はいないだろう。いつ、誰に裏切られるか分からない疑心暗鬼の中、言葉を濁らせ、誰も本心を出さなくなる。こうして協力しようという熱意はなくなり、残るのは監視と計算だけだ。

では、どうすれば沈まないのか。それは、知性という箱舟に乗ることだ。

目先の快感より少し先の結果を見る。人と主張、事実と解釈を切り分けて話す。巻き込むべきことと切り捨てるべきことに線を引く。誤りは修正し、無用な争いは拾わない。派手に勝たない代わりに、無駄な損を避け、敵を作らず、必要な関係を保ち続ける。この地味な振る舞いが、泥の比重に抗う浮力になる。

ただし、ここで一つ確認しておく。知性を持っていても、裏に隠している性癖はどす黒いかもしれない。知性と性癖は独立しているからだ。どんなに良い人でも、性的に良い人とは限らない。だから、「賢いから安全」ではない。舟に乗る資格は、知性だけでは足りない。必要なのは、知性に加えて誠実さだ。言葉と行いが一致し、相手を故意に貶めない、約束を守る、その最低限の芯。

ゆえに選ぶべきは、知性を持ち、心の底から誠実な人である。そういう人同士で絡めば、批判は攻撃にならず、対話は学びに変わる。沈黙も合図になり、違いは資源になる。嫉妬の温床である比較の回路を止め、互いの思考と成果に正面から光を当てることができる。そこに小さな島が立ち上がる。エデンである。

大衆と深く交われば、結局は足の引っ張り合いに巻き込まれる。泥の中で綺麗に歩くことはできない。だからこそ、自分の手の届く範囲だけでも、知性ある友人と舟を並べ、エデンを築けばいい。変な人とは関わらない。知性と誠実さ、どちらかあるいは両方が欠けている人は箱舟に乗れないのだから。境界は冷たくていい。境界があるから、温かい対話が守られる。

淘汰は劇的には来ない。軽い嘘、安い嘲笑、責任転嫁、揚げ足取り——小さな不誠実の積み重ねで静かに沈む。やがて声はかからず、情報は回らず、気づけば首まで泥。一方で舟に立つ者の利得は地味だ。炎上しない、無駄に戦わない、必要なときに必要な扉が開く。その違いが年単位で積もる。

結局のところ、知性のない者は泥の中で消耗し、嫉妬に絡め取られて淘汰される。知性を持ちながら誠実さを欠く者は、いずれ自分で舟に穴を開けて沈む。知性と誠実さ、その両輪を備えた者だけが箱舟に立ち、海を渡る。知性は飾りではない。誠実さは飾りではない。救いはこの二つの合力にしか宿らない。私は大衆の海を渡らない。知性ある友人とだけ舟をつなぎ、共にエデンを築こう。

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