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頭の良さとは何か

「頭が良い」とは一体何か。

数学に強い人を賢いと呼ぶこともあれば、言葉巧みに人を説得できる人をそう呼ぶこともある。人の心を直感的に理解し、場を和ませる人にも「頭がいいね」と評することがある。私たちが日常で使う「頭の良さ」という言葉は、どうやら様々な使い方があるらしい。

頭の良さには種類がある。生活の知恵に優れているが数式は苦手な人がいるし、数式のパターンを瞬時に見抜けても他人の感情を汲み取れない人もいる。サッカーの戦術眼に秀でた人もいれば、チェスのパターン認識に長けた人もいる。論理力に優れているのに、人間理解に乏しい人もいる。つまり「頭が良い」という評価は場合によるのだ。

(余談だが、頭の良さに種類があるせいで「”本当の”頭の良さ」という表現が生まれる。既存とは別の頭の良さを用意しただけの、本当でも何でもない別の種類の頭の良さだ。)

しかしここで一つの疑問が浮かぶ。種類があるのは確かだとしても、全く無関係なバラバラの能力の集まりなのだろうか。そうではない。どの能力にも「状況を把握し、パターンを見出し、適切に対応する」という共通の基盤がある。これが根っこにあり、その表れ方が数学になったり、身体感覚になったり、言語的共感になったりする。つまり知性には種類があるが、その背後には一つの基盤が存在する。

この考えに立つと、頭の良さは単純に優劣をつけられない。数学者とサッカー選手のどちらが「より賢いか」という問いは成立しない。数学的な頭の良さとサッカーIQの高さは別物だからだ。比べられるのは同じ領域の中においてのみだ。サッカー選手同士なら比較できるが、数学者とサッカー選手の賢さを比較することはできない。

とはいえ、私たちはつい「数学的な知性が上位ではないか」と考えてしまう。数学は抽象度が高く、文化や時代を超えて普遍的に通用するからだ。教育制度も数学的能力を高く評価している。だがそれは基盤そのものの優劣ではなく、基準の側が数学を重く見ているにすぎない。もし生存を基準にすれば博物的知性が最重要になるし、社会適応を基準にすれば感情理解や言語力が最上位に来るだろう。

では「真に頭が良い人」とは誰か。私はこう考える。数学的知性と、言語力・感情理解力。この二つを兼ね備えた人こそ、頭が良いと呼ぶにふさわしい。簡単な数学程度を理解する力がなければ、物事を論理的に考える力がない。物事を論理的に考えられない人を頭が良いと呼ぶのは不可能だ。言語力・感情理解力がなければその把握を他者と共有し、社会に生かすことができない。数学だけでは頭でっかち、言語や感情だけでは感情的な馬鹿。両者が補完し合って初めて、知性は全体として機能する。

頭の良さとは、一つの基盤能力が文脈ごとに多様な形を取る現象である。そしてその中でも、抽象的世界を読み解く力と、それを他者と共有する力の双方を持つとき、人は「真に頭が良い」と感じられる。真理を見抜く眼と、真理を伝える口と耳。この両方を備える人こそ、知性の完成形に最も近い存在なのだろう。

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