人は自分の持っているもので「十分だ」と考える傾向がある。これは学歴の話にもよく現れる。大卒の人は「大学は出ておいた方がいい」と言い、高卒の人は「大学なんて出なくても生きていける」と言う。互いに矛盾する主張をしているようでいて、実際には同じ構造の心理が働いている。つまり「自分の持っているものまでが必要であり、それ以上は不要だ」と位置取りすることで、自己を守っているのである。
この構造をスキルの階層で考えてみよう。AからEまで五段階の能力があったとする。Aはもっとも基礎的で、Eがもっとも高度だ。例えばAが小学校算数、Cが高校数学、Eが大学教授レベルの数学という具合である。さて、どのレベルまで身につけることが望ましいのか。もし「努力にかかる時間や労力」を完全に無視するならば、答えは単純である。高ければ高いほど良い。Eに達している人の方が、AやBにとどまる人よりも広い視野と深い理解を持ち、応用力も高いのだから。
ところが現実の人間は、自分が持っている地点を基準点にしてしまう。Aしかない人は「これで十分だ」と言い、Cにいる人は「AやBでは足りないが、Eまでは不要」と主張する。Eにいる人は「ここまで来なければ本当の理解ではない」と語る。こうして、各人は自分の現在地を絶対化してしまう。これがまやかしである。
なぜこうなるのか。心理学的に言えば、これは「認知的不協和の低減」や「自己奉仕バイアス」に近い。人は「自分が選ばなかったもの」に直面すると不安になる。だから「選ばなかった理由」を後から整えて、自分を納得させる。その結果「高校数学まで学んでおけば十分」「大学は不要」などの言説が生まれる。しかし、それは論理的な結論ではなく、あくまで自己防衛の物語にすぎない。
実際には「高度な知識を直接使うかどうか」と「それを学んだ過程で身についた思考習慣」は区別しなければならない。大学教授レベルの数学を日常生活で使う機会は少ないかもしれない。だが、その習得過程で培った抽象化能力、問題解決のフレーム、論理の精緻さは、他の場面に波及する。だから「使わないから不要」という言い分は、成長の副産物を無視しているにすぎない。
結局、「どこまで必要か」という問いは「自分がどこまでを正当化するか」という問いに置き換わってしまう。人は必ず今の自分を守ろうとする。だが、それに安住してしまえば、それ以上の高みに登ることはできない。「能力は高いほど良い」という単純な事実と、「人は必ず今を十分と錯覚する」という二重構造を直視できるかどうか。そこにこそ、その人が伸び続けるか停滞するかの分岐点がある。
あぁ、数学は線形代数程度は理解しておくべきだと思うし、大学くらい卒業した方がいいだろう。大学院は行かなくてもいいのではないか。もちろん君も、そう思うだろう?
