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「死なないから大丈夫」という幼稚さ

「死なないから大丈夫」。この言葉を聞くたびに腹が立つ。

失敗をしても「死なないから大丈夫」、会社で不正があっても「潰れるほどじゃないから問題ない」、子どもが不登校になっても「学校に行かなくても生きていける」。そうやって小さな問題を矮小化し、大きな言葉で覆い隠す。結局は何も解決せず、思考を打ち切っているだけだ。

死ぬか死なないかというのは、極限状態における最低基準にすぎない。日常の生活や社会の運営において求められるのは、もっと細かいレベルでの修正と改善である。小さな怪我に再発防止の工夫を加えること、小さな不正を摘んで腐敗を防ぐこと、軽度の不登校に丁寧に対応して子どもの将来を守ること。これらはすべて「死ななきゃ問題ない」では片づけられない。むしろ、そこに手を打つかどうかが成熟と退行を分ける。

「死ななきゃ問題ない」と言う人は、自分を合理的だと信じているのだろう。だが実際には、最小限の基準に逃げ込んで思考を停止し、責任から逃げているだけだ。だからこの言葉には勇気も合理性もなく、ただの幼稚さと怠慢しか感じられない。

不登校の議論はこの構造をよく表している。「学校に行かなくても死にはしない」と言う人は、子どもを思いやっているように見える。しかしそれは「死ななきゃOK」の教育版にすぎない。本来「休んでいいよ」という言葉は、今は疲れているから休んで、回復したらまた歩き出そうという意味だ。一生行かなくてもいいという免罪符ではない。学びを放棄してしまえば、苦労するのは本人である。社会で生きていくには、誰かに価値を提供できる力が必要なのだから。

もちろん、病気や劣悪な環境といった本当の例外はある。しかしそれを盾にして「死ななきゃ問題ない」という基準を一般化してしまえば、社会は鈍感で停滞したものになる。小さな問題に誠実に向き合い、改善を積み重ねていくこと。それ以外に成熟も進歩もない。

励ますために使う場合もある。責任感の強い真面目な人に対して、「そのミスは大したことないよ」という意味で「死なないから大丈夫」と伝えることがある。この場合、傷付きやすいという精神的な幼稚さを補うために「死なないから大丈夫」という言葉を使う。

だから私は繰り返す。「死ないから大丈夫」と言うな。小さな問題を直視しろ。そこからしか未来は拓けない。

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