「魅力とは、他人の心に入り込むためのパスポートである。」
現代社会において、外見はあらゆる場面で評価の大きな要素であるのが現実だ。
理想論としては「人は内面や能力で評価されるべき」であるとされるが、就職・ビジネス・恋愛などの対人関係において、見た目が与える印象は内面や能力の評価にまで波及する。
『シンデレラ』はシンデレラが可愛いから成り立った物語だろ。
『美女と野獣』、美女は野獣の内面を好きになった物語だけど、野獣は美女の外見をまず好きになってるだろ。
あなたが知っているあの作品は、もし「美しい」「魅力的である」と設定されている登場キャラクターの外見が美しくも魅力的でもなかったとしても、問題なく成り立ったであろうか?
私は、「好きな作品に出てくる登場人物の性別が全部入れ替わってたとしても、その作品は”面白い”だろうか」という視点で作品を評価することがよくある。
それほどまでにルッキズムの影響は大きく、いくら理想を掲げようともルッキズムから逃れられない。
今回は、ルッキズム社会で生き残るために見た目を良くしていかなければならないことを再認識していこう。
ルッキズムと差別の定義
ルッキズムの定義
ルッキズムとは、個人の外見に基づいてその人の価値や能力を判断し、不当に取り扱う偏見や差別のことを指す。
外見は、
先天的な要素:遺伝子によって決定される骨格、顔立ち、肌の質感など
後天的な努力の要素:清潔感やファッション、メイク、体型管理
が混在する。そして、根本的な美的特徴は本人の努力だけでは大幅に改善できない。(とされている。)
したがって、外見を主要な評価基準とすることは、本人がコントロールできない要素に依拠しており、不当な差別であるというのが一般的な考え方だ。
差別の定義
差別とは、生まれながらに変えられない属性(人種、性別、国籍、宗教、障害、性的指向、年齢など)に基づいて、不当に不利益な扱いを受ける状態を指す。
例えば、人種は生まれた瞬間に決まるため、人種を理由に不利な扱いをすることは差別である。
一方、学力は後天的な努力によって変化するため、学力を理由に合否を決めることは差別ではない。(とされている。)
すなわち、評価が先天的な属性にのみ依拠して個人の可能性や機会を制限する場合、これを不当な差別とするのが一般的な見解である。
「あなたはこの二人の内、どちらの人と一緒に働きたいか」
と聞かれて判断を下したとき、完全に見た目だけで判断していることになる。まさしくルッキズムであり、差別とされる。
ルッキズムは差別なのか? 能力主義は差別にならないのか?
ルッキズムは差別か?
個人の外見という先天的な要素に基づいて評価を下すのであれば、間違いなく差別だと批判される。
確かに、体型・顔立ちなど、本人の意志では大幅に改善できない先天的な要素があるのは間違いない。
しかし、見た目は先天的な要素だけで決まるわけではなく、清潔感の維持・ファッション・メイク・整形などによって外見を改善することは可能なのではないだろうか。
見た目が先天的ではないとするのであれば、ルッキズムは差別ではなくなる。
では、外見は先天的な要素と後天的な要素、外見はどちらの方の影響が大きいのだろうか?
例えば、身長という大きな外見の特徴は先天的な要素が明らかに大きい。今、あなたの身長を10cm小さくしろと言われてもできない。
一方、目元の印象を変える程度であれば、毎日行っている人も多いだろう。
外見は先天的な要素の方が大きく影響するのであれば外見で判断するのは差別だが、後天的な要素が大きい場合差別にならないかもしれない。
ルッキズムのようで差別ではないもの
「後天的な努力で改善可能な外見に基づく評価」であれば、外見で評価しているにも関わらずルッキズムによる差別だとみなされにくい。
例えば、メイク・ファッション・ヘアスタイルなど、後天的に変えられるものを使った評価は差別にならない可能性がある。
誰でも利用可能な手法を用いて外見を好印象に変えるというのは、まさしく後天的な努力であるからだ。
敢えて可愛い恰好をしている場合、可愛いと評価を受けることがルッキズムになるとは限らないだろう。
差別とは「生まれながらに変えられない属性に基づいて不当に不利益な扱いを受ける状態を指す」ので、外見の中でも”後天的に変えられる部分を評価する”場合は、ルッキズムによる差別に値しない可能性がある。
まぁ、どこまでを「努力」とするのかという問題も起こっているのだが。整形を努力なのかどうか。
ルッキズムが差別になる場合
当然、先天的な特徴に基づく判断をする場合はルッキズムによる差別だ。
例えば、ある企業が応募者の特定の肌の色を根拠に応募者全体を一律に有利な評価を下す場合、先天的な部分に依拠しているとされ差別とみなされる。
また、能力や実力が全く同じ二人がいたとき、外見の差によって二人の評価が変わることも典型的なルッキズムによる差別だ。
先ほど、「敢えて可愛い恰好をしている場合、可愛いと評価を受けることがルッキズムになるとは限らない。」と表したが、可愛い恰好をしているそもそもの人が”外見が可愛いという社会的評価を得ている”を場合、ルッキズムとみなされるかもしれない。
能力主義の評価とその複雑性
能力主義は、学力、認知能力、専門技術など、後天的な努力や教育、訓練によって向上が期待される要素に基づいて評価することである。
「下手な歯医者さんより上手な歯医者さんに診てもらいたい。上手な人であればあるほど良い。」と言う考えが能力主義だ。
一般的に、”能力は後天的な努力によって向上するため能力による区別は差別ではない”と考えられている。
しかし、能力の形成は先天的な要素と後天的な要素が複雑に絡み合っているため差別であるという能力主義批判が一部で盛り上がっている。
遺伝子や家庭環境、教育機会、さらには偶然の出会いや「時の運」といった要因が、個人の能力発展に大きな影響を与える。すなわち、能力もまた本人の努力だけで完全にコントロール可能なものではなく、本人が改善し得る範囲には限界がある。能力による区別も差別である。
という考え方だ。
質の悪いことに、能力のある人は「自分に能力があるのは自分の力で努力してきたからだ。」と思い込み、たまたま環境が良かったこと・運が良かったことを認めない。
という批判までが能力主義(メリトクラシー)批判のワンセットである。
にもかかわらず、社会は努力や自己改善の結果を評価基準として採用し、客観的なテストや実績によって能力を測るというシステムを構築している。
これは、評価の過程において本人の努力が反映される余地が認められているという点で、ルッキズムとは性質が異なるとされる。
とはいえ、実際の評価システムには環境の格差や運の要素が介在しているため、能力評価が完全に公正であるとは限らない。
評価においては、後天的な努力や成果が大きく反映されるという理想と、先天的な不平等が存在する現実との間にジレンマがある。だが、一般的には、個人が努力して自己改善できる範囲が広いという理由から、能力評価は合理的な区別とみなされ、外見による評価とは区別される傾向にある。
能力主義とルッキズムの根本的な違い
ルッキズムと能力主義の根本的な違いは、評価対象が「本人の努力によってどれだけ改善可能か」に依存するか否かである。
外見の場合、先天的な要素の影響が非常に大きく、努力による改善の余地はあるにしても、その基盤となる部分は本人の意思だけでは大幅に変えることができない。
これにより、外見に基づく評価は、本人の努力とは無関係な要因に左右され、不当な差別を助長する可能性が高い。
一方、能力は後天的な努力や訓練、環境改善によって向上が可能であり、たとえ先天的な不平等があっても、個人がその中で自己改善に努めた結果が客観的な成果として示されやすい。
このため、能力評価は本人の努力や成果に基づいており、合理的な競争を促進する手段として社会に受け入れられている。
しかし、先天的な要素が影響するという現実は否めず、能力評価にも完全な公平性が保証されるわけではない。
総じて、能力評価は、本人が努力して向上させる余地が大きいという点で、評価の結果が本人の行動に根ざす可能性が高くなるのに対し、ルッキズムは、努力では大きく変えられない先天的な要素に依拠しているため、評価の根拠として不当な偏見となりやすい。
こうした違いこそが、社会的にルッキズムが不当な差別とされ、能力評価が合理的な区別として容認される主な理由である。
恋愛面におけるルッキズムと努力の範囲
恋愛においても、外見は非常に重要な評価基準の一つである。
現代社会では、メディアや文化が理想的な美の基準を強調しており、多くの人が自分の外見に対して過剰なプレッシャーを感じる。
第一印象としての外見は、相手との「釣り合い」を感じるための判断材料となる。
例えば、理想的な外見を持つ相手と付き合うためには、自身も一定の美的基準を満たす必要があると、多くの人が認識している。
しかし、理想論としては内面や能力、価値観など多面的な要素で判断されるべきであるが、現実には外見が恋愛の評価において大きな影響を与えている。
外見改善の手段として、清潔感の維持、ファッション、化粧、さらには整形手術などがあり、これらの努力が実際に恋愛面での成功に寄与する現実は否めない。
ただし、一定水準(「釣り合い」と感じられる程度)を満たせば十分であり、過剰な改善に走る必要はないというのが、現実的なアプローチである。
結論
ルッキズムは先天的要素で判断する差別、能力主義は後天的要素で判断する区別である。
ルッキズムは通常、「見た目が可愛い・イケメン」という要素ではなく、肌の色とか身長とか骨格とか、そういう部分が先天的要素だとされる。
ただ、人間はどうしても見た目で判断する生き物なので、ルッキズムは差別だと言いつつ見た目を良くしていくしかない。
能力が本当に後天的なものなのか疑問は残るが、後天的なものとみなしているというのが現実であるため、能力も伸ばしていくしかない。
見た目も能力も高めていかなければ、社会の恩恵を受けることはできない。