「怒られるからやらない」「怒られるからしっかりする」。
こう口にする人間は、世の中に思った以上に多い。しかも、普通の言葉として使われている。
だが、断言しよう。この考え方は、あらゆる意味で害悪である。
「怒られるから〇〇する」という考えは最底辺の最底辺の道徳原理、つまり悪であり、根絶されなければならない考え方だ。
そもそも、行為には固有の目的がある。
学校に遅刻しないのは授業に出て学ぶため。
仕事をするのは成果を出すため。
掃除をするのは部屋を整えるため。
努力をするのはより良い人生を目指すためだ。
それを、「怒られるからやる」という理由で動いている時点で、その人は物事の本質をまるで理解していない。言うなれば、思考放棄、目的喪失、責任転嫁――そのすべてを兼ね備えた、誇張抜きにして“ゴミ思考”である。
「怒られるからやる」は、動機として腐っている
人間の行動は、その内在的な目的に従うべきだ。
「何のためにそれをやるのか?」という問いに対し、「怒られないため」という答えしか返せないなら、その行動はすでに死んでいる。
目的を喪失した行為は単なる反射であり、習性であり、思考ではない。
「授業を受けたいから遅刻しない」のではなく、「怒られるから遅刻しない」という人は、学びという本質を軽んじている。
なぜなら、本人にとって重要なのは“学ぶこと”ではなく“怒られないこと”だからだ。
そんな行動に価値などない。こうした人間は何かを改善する意志を持たない。
自分の人生を自分で生きていない、物事を分かっていない人間であると言える。
怒りを誤解するな
怒られること自体が悪いわけではない。怒られることで「この行動は何か悪かったのかもしれない」と考えるきっかけになる。
問題は、それを「怒られたくない」という回避行動に変換することだ。
本来、怒られたときにすべきなのは、「なぜ怒られたのか」「何を目的として、その行為が否定されたのか」を考えることである。
「怒られたから掃除する」ではなく、「怒られたことにより、掃除をしなかったことで部屋が汚れたと気づいた、だから掃除をする」。これが健全な反応だ。
怒られたことを“きっかけ”にして行動を修正することは構わない。しかし、「怒られることの有無」だけで行動の価値を判定している限り、その人間は永遠に目的意識を持つことができない。
ただし、怒る側の人間があまりに理不尽で、怒りそのものが暴力や支配として機能している場合は話が異なる。
正しい行動をしていても、ヒステリックに理不尽に怒られる場合、無用なトラブルを避けるため怒られないように行動するのは自然な行動だろう。
このとき、「怒られるから〇〇する」という思考を生んだ責任は、怒られる側の人間ではなく、そうした環境を作り出した怒る側の人間にある。
怒る側の人間性がゴミのせいで「怒られるから〇〇する」という状況が生まれており、「怒られるから〇〇する」という状態を生み出されているという点で害悪が生じていることになる。
賞罰に基づいた動機はすべて不純である
「怒られるからやらない」と同類の思考として、「褒められるからやる」「評価されたいから頑張る」といった動機も存在する。
「怒られるからやらない」と「褒められるからやる」は一見別のものに見えて、中身や構造は全く同じである。
「褒められるから学校に行く」は、本来の目的である「学ぶため」という目的を見失っている状態という点で、怒られるから〇〇すると同じだ。
賞罰によって動かされている時点で、その人間は“自分の頭で考えて”行動していない。他者の評価、反応、外的報酬によって操られているだけである。
それは動物の訓練と変わらない。
「怒られるから~」という思考に甘んじている人間が、本質に到達することはない。自分の行動の価値を他人に委ねている限り、人生を自分で作ることは不可能だ。
おわりに
「怒られるから○○する」という発想は、行動の目的を見失った思考の末路である。
このような思考が蔓延した組織、社会、家庭、学校は、すべて劣化する。やるべきことをやるべき理由で行う人間だけが、社会を動かし、信頼され、未来を作る。
「怒られるから」を理由にする人間に、期待される未来などない。
だから私は、この思考をはっきりと「害悪」と断じる。