私は今、ここに自分の意見を書いている。これを読んでいるあなたは、私の意見に触れていることになる。では、もしあなたがこの内容をどこか別の場所で語ったとしたら、それは誰の意見になるのか。答えは明白である。それはあなた自身の意見である。なぜなら、あなたが「そうだ」と感じ、「正しい」と思い、そして自分の言葉として語ったからである。その瞬間、それは私の意見であると同時に、確かにあなたの意見になる。
人はしばしば「自分だけの意見を持たなければならない」と思い込む。しかし、何もないところから意見が生まれることはない。人は常に他者の言葉に触れ、響いたものを取り入れ、それを自分の中で組み替えながら、自分の考えを形づくっていく。つまり、私たちが「自分の意見」と呼んでいるものの多くは、他者の意見の集積であり、再構成にすぎない。
このことは歴史を振り返れば容易に理解できる。哲学者モンテーニュの『エセー』は引用の宝庫である。彼の著作の大半は古典の言葉の再録だが、それでも誰もがあれを「モンテーニュの意見」として読む。なぜなら、彼が選び、組み合わせ、責任を持って語り直したからである。また、古代ギリシアの哲学もほとんどが「対話」の形式で書かれている。他者の発言を受け、それを検討し、自らの意見として語り返す。これこそが思考の営みそのものであった。
教育の場面でも同じことが起こる。生徒が教師の言葉を聞き、それを自分の言葉で説明できるようになったとき、単なる暗記は「理解」へと変わる。他者の意見をそのまま語ったに見えても、それを自分の頭の中で咀嚼し、自分の声として外に出した瞬間に、それはもう生徒自身の意見である。意見の継承と学びは切り離せない関係にある。
もちろん、異論はあるだろう。「他人の意見をそのまま繰り返しただけでは借り物にすぎない」と言う人がいるかもしれない。しかし、借り物かどうかは本質ではない。本質は、発話者がそれを「自分のもの」として引き受けるかどうかである。他人の言葉をただ口移しに唱えているだけなら、責任は伴わない。しかし、自分が信じて語るなら、それはもはや借り物ではなく、あなたの意見なのだ。
だからこそ、「借り物であってはいけない」と過剰に恐れる必要はない。人は他者の意見を聞き、良いと思ったものを取り入れ、積み重ねていく。それこそが、人が自分の意見を獲得する唯一の道筋である。重要なのはオリジナルであることを競うことではなく、何を自分の言葉として語り、責任を引き受けるかという一点に尽きる。
